「奴の所属していた北安共和国の諜報機関は、個人それぞれが独立して動いています」 画面はチョウのプロフィールが映し出されていた。「その中でもチョウは高額の取引を行ない、共和国への献上額が大きいので優先的に便宜を図られていたようですね……」 先島は自分が覚えているチョウのプロフィールを幾つか言った。「共産主義者得意の末端組織の細分化って奴か……」「一人が逮捕されても芋づる式に検挙されないようにする為ですね」 室員たちが口々に話していた。「奴の取引の得意先は何処なんだ?」 室長が先島に質問して来た。チョウを追いかけていた先島が一番詳しいと考えたからだ。 画面はチョウが関連していると思われる一覧に切り替わっていた。「暴力組織や過激派、中には宗教団体もありましたね」 元々、チョウは武器のブローカー。世界中の紛争地に武器を配給している死の商人だ。 その伝手で様々な非合法の物を日本に持ち込んでは売りさばいていたのだ。しかも、自分の足跡を残さずにやってしまうので尻尾を掴ませないのも有名だった。「ああ、あの毒ガスを使ってた宗教団体……」 沖川みきが呟く。彼女が保安室に配属された時に、友人が毒ガス散布に巻き込まれて死んだと言っていたのを思い出した。。「ええ、検挙される前に宗教団体の代表は交通事故に遭って死にましたがね。 状況から見て私は暗殺されたと考えてます」 藤井がそう言って振り返ると、何故か先島が俯いて頭を掻いている。他の何人かの室員たちもそっぽを向いていた。彼らが何がしかに深くかかわっている感じを受けたのだった。「動きのある過激派や暴力団の情報を貰って来た」 翌日、室長が公安からの情報を携えて室内に入って来た。「三つの監視チームを編成してチョウの足取りを追う事にする……」 室長は動きが監視対象を3つに絞り込んで監視するつもりだ。それから一つにして検挙を行うのだろう。「宮田と加山はヒコマル派を担当しろ」 ヒコマル派は1970年代安保闘争で有名になった組織だ。日本各地の交番や銃砲店を襲って何人も死傷者を出していた。しかし、余りの過激さに学生たちからそっぽを向かれて組織自体は衰退している。だが、今でも生き残っている幹部たちは武装闘争の夢を諦めないでいるらしかった。 幹部の一人が北欧で北安共和国の重要人物と接触していたらしい。「久保田と
乗用車の中。 関東右山組の駐車場を見張っている先島と青木。狭い車内で時々体制を変えながら目を光らせている。「監視チームの部屋を貸してもらえると助かるんですがねぇ……」 朝から何度目かのボヤキを青木が言った。 二人は挨拶には向かったのだが、けんもほろろに追い払われてしまった。「それにして、あんなに邪険に扱わなくても良いだろうに……」 まだ、ブツブツと文句を言っている。「まあ、あちらさんも事件を横取りされると思ってたんじゃないか?」 そんな青木に苦笑しながら言った。 先島自身、向こうが検挙寸前に待ったをかけた事が何度かあった。潜り込ませた内部通報者を守る為だったが、そんな事情は一切説明はしないので結構恨まれたりしたものだ。「まあ、ミニパトを呼ばれないだけでもめっけもんだよ」 先島が苦笑しながら言った。 公安警察の張り込みだろうと普通乗用車を使うので、知らない人が見ると不審者が停まっているように見える。 以前に別の事件を追いかけていた時。所轄警察の捜査をジャマしてしまったらしく、嫌がらせのようにミニパトに職質された事があった。偶然などを信じない先島はわざとやられたに違いないと踏んでいた。「青木は張り込みには慣れていないのか?」 先島は軽く欠伸をしながら返事をする。「僕はスリーパーを作るのが仕事でしたから……」 スリーパーとは内部通報者だ。普段は何もしないが何か問題が起きそうな時にはこっそりと通報してくるのだ。仲間を裏切るように仕向けるので結構難しい仕事だった。 青木は何度目かのカメラの動作チェックをしている。身体を動かしていないと寝てしまいそうだからだ。「ああ、工作が専門だったのか」 公安警察内部にも色々と部署がある。横の繋がりは無いに等しいので、同じビルに居ても挨拶すらしないのも珍しくは無い。 仲良しこよしの組織では無いので、お互いに不干渉が鉄則なのだ。高度な機密情報を扱うので、全体を掌握する上層部以外は情報を共有しない。「ええ、先島さんも似たような感じでしたでしょ?」 青木が聞いて来た。「ん、俺はもうちょっと汚い方だったな」 先島が少し笑いながら答えた。 先島は内部通報者を育てたり、監視対象が自滅する工作を行ったりしていた。「ははは、五十歩百歩でしょ」 青木はそう言って笑っていた。「自分はですね…… 南安共
ブーーーンッ 先島の携帯電話が震え、電子メールの着信を知らせて来た。仕事柄、入電やメールで電子音を鳴らす訳には行かないのだ。『チョウが現れた模様』 保安室で留守を預かっている藤井からであった。 彼女は日本中を流れている電子情報から、チョウに関わる事柄を探り当てたようだ。(さすがだな……) 自分でもある程度はコンピューターの操作はやるが、専門家である藤井の方が遥かに上だった。 僅かな手懸かりから真実を暴き出す。 電子メールには画像が添付されていた。車の横に立つチョウが写っている画像だ。そのチョウの向かい合わせには、面相のよろしくない御仁が写っている。関東右山組の面々であろう事は一発分かる画像だ。「俺たちの張り番が本命らしい……」 先島は青木に画像を見せた。「今、藤井が関東右山組の携帯電話を追跡しているそうだ」 続いたメールには複数の監視チームを付けると室長が言っていると書いて有った。「やはり、武器の取引なんですかね……」 薬物取引の可能性も有るが、関東右山組は関西にある暴力団と抗争している噂がある。銃火器が喉から手が出るほど欲しいはずだ。「インターポールによると、チョウはセルビアやクロアチアで銃を売り歩いていたそうだ……」 先島に分からないのは、何故日本に来たのかだ。(取引自体は部下に任せればいいんじゃないのか?) チョウには腹心の部下が何人かいるのを知っている。彼らに任せても支障はないはずだ。「へぇ、国際的な武器のブローカーなんですね」 青木は気の無さそうに車のエンジンをスタートさせる。一旦、自分たちの『会社』に帰る為だ。『会社』とは保安室の事、外出先では余計な詮索を避けるために『会社』と呼称しているのだ。「日本人は金払いが良いからね」 先島はそう言って苦笑した。「あちらに知らせなくて良いんですか?」 あちらとはマンションの一室を借りているマルボウの監視チームだ。「向こうは自分たちでなんとかするだろう……」 先島は軽く答えると車の発進を促した。一度、『会社』に帰って監視チームを編成し直す必要があるからだ。 彼の関心はチョウに向いている。犯人検挙の手柄争いには興味が無いのだ。(案外早くチョウに辿り着けそうだな……) 先島には過去の亡霊が蘇って来る感覚がしていた。 会社からの帰路の途中で先島は花屋に寄り道をし
埼玉県内にある自動車解体工場。「来ますかね……」 その日、何度目かの質問を青木がしてきた。「その内、来るだろう……」 先島は何度目かの返答を返していた。元々、張り込みなどと言うのは空振りの方が多い。その事を年若い青木は知らない様だった。 先島と青木の二人は、埼玉県内にある自動車解体工場の入り口を見張っていた。 保安室の室長はマルボウに気兼ねしたのか、チョウと関東右山組幹部との接触情報を知らせたらしかった。「ちょっと、アチラさんの手伝いをしてきてくれ……」 室長に呼ばれた二人はそう言い渡された。 見返りに彼らの関東右山組にいる内通者からの情報を知らせて来た。 埼玉県内にある自動車解体工場で何らかの取引が有るそうだ。取引の内容については不明。 『絶対に手を出すなっ!』との赤文字の但し書き付きでだ。身柄を持っていかれるのが嫌だとみえる。 自動車解体工場は外国籍の社長が営んでいるが、犯罪歴などは無く暴力団とのつながりは分からない。「分からない事だらけじゃねぇか……」 先島は嘆いていた。本当は過去の取引相手への聞き込みをやりたかったのだ。 しかし、今日は工場の監視したいので協力しろとのお達しだった。「まあ、お仕事は有難く頂戴しておくか……」 先島は誰に聞かれている訳でも無いのに独り言をつぶやいた。「はあ、そう言うもんですか……」 青木は気の無い返事をしながらスマートフォンの操作を行っている。「藤井さんの方からは何も無いと言って来てますね……」 保安室で留守を預かる藤井から、チョウの行動予測情報を得ようとしているらしい。現在は携帯電話の電源を切っているらしい。だが、万が一電源が入って基地局などに繋がってくれれば大体の位置が予測できるからだ。「何のつもりか知らないがチョウは身を隠そうとしていないようなんだ」 先島は自動車解体工場に通じる道の入り口を見ながら青木に言った。 青木がスマートフォンから顔を上げると、白い塗装のトラックが曲がって来る所だった。「あのトラック…… 怪しいな……」 先島が呟いた。何か特徴があるトラックでは無かった。長年のカンでそう思ったのだけだ。 先島の言葉に青木は反射的に望遠レンズ付きのカメラを構えていた。トラックの運転席には南米系と思われる彫りの深い外国人と、アジア系の薄い顔の男が見えていた。「正
先島の双眼鏡には、トラックのフロントガラスに小さいヒビが走っているのが見えている。 石がぶつかった程度では開かない穴も開いている。考えられるのは銃で撃たれた可能性だけだ。「運転手は死んだのか??」 トラックはそれなりの速度を出していた様だ。運転手は項垂れたままでピクリとも動かない。トラックはたちまちの内にコントロールを失い迷走を始めてしまった。「あれは…… 無理ですね……」 隣に座って居るチョウが、慌てたようにハンドルを操作しようとしているのが見えていた。 しかし、ハンドルに突っ伏した運転手が邪魔で操作できない。コントロールを失ったトラックは、そのままガソリンスタンドに突っ込んでしまった。「あっ!」 ガソリンスタンドには降り悪く給油中の車が居る。トラックはその車を弾き飛ばすように衝突してから停止した。しかし、どこかを損傷したのかトラックから灰色の煙が立ち上がり始めた。 不幸は重なるものだ。給油中の車から外れた給油ホースが油圧に負けて暴れまわっている。 通常なら給油ホースが外れた所で、配給が停止するようになっているはずなのに仕組みが動いていない。 辺りにはガソリンと思われる液体が振り撒かれていた。「不味いな……」 先島がそう思った刹那に、トラックの下から煙の間から赤い炎がチロチロという感じで見え始めた。バッテリーがショートしたのかもしれない。 嫌な予感は当たりたちまちの内に火が吹き上がり始めた。トラックは黒い煙と紅蓮の炎に包まれていく。「消防に連絡だ。 油火災だから水をかけるのは不味い……」 先島が言った。「はい……」 青木はカメラを膝に置いて電話を掛け始めた。しかし、電話をかける間も炎は広がりガソリンスタンドの屋根にまで届き始めた。 ガソリンスタンドの職員が消火器を抱えて出て来た。だが、炎を見て逃げ出してしまった。火の勢いに自力での消化を諦めたのであろう。弾かれた車の客に逃げるように手招きしている。 いきなりの事で唖然としていた客も、慌てて一緒に敷地外に逃げて行った。 やがて、ひとしきり大きな音がしたかと思うと巨大なキノコ雲が上がり始めた。衝撃波で車が揺さぶられている。 トラックの荷物が爆発したのであろう。「トラックの中身は何だったんだよ」 百メートル近く離れているのにも関わらずに熱さが伝わって来る。青木は舌打ちを
数日後。 藤井あずさは端末の操作をしつつ室長の様子を伺っていた。朝から機嫌が悪いのだ。 室長こと田上哲也(たのうえてつや)は五十二歳。少し早とちりの癖はあるが、海千山千の室員たちを良くまとめていると藤井は思っていた。 元々、田上室長は公安警察の人間で、ノンキャリアながらも出世してきた人間だった。何よりも警備警察や自衛隊制服組などとの人脈も多く上層部しか知らない噂などにも精通していた。「狙撃犯の情報は入って来ていないのか?」 室長が藤井に聞いて来た。「近所にある空き家内から狙撃されたらしいと言ってました」 監視していた先島たちの証言と写真画像などから狙撃地点は簡単に割り出せた。「物証や硝煙反応などは出ていないですが弾道計算ではここで在ろうと……」 藤井が表示させた画面には自動車解体工場付近の地図が表示されている。焼失したガソリンスタンドと空き家と見られる家屋が赤い線で結ばれていた。「距離は三百メートル。 移動しているトラックの人物にヒットさせてますから中々の腕前ですね」 標的が静止している射撃競技と違って、動いている標的を当てるのは至難の業だ。少々訓練を受けた程度は無理だ。「訓練を受けているプロの仕業か……」 室長は退職した警察や自衛隊の狙撃手なのだろうかと考えていた。「そうどうでしょうか? 自分としてはチョウを狙って外してしまったとも受け取れますが……」 先島は一緒に同乗していたチョウの表情を思い出していた。普段、動じないチョウが驚愕の表情を浮かべていたからだ。「トラックに積まれた荷物の隠滅をやりたかった可能性もあります」 トラックの荷物は硝酸アンモニウムだった。しかし、チョウが扱う荷物してはショボイなと先島は考えた。「ガソリンスタンドに突っ込ませたかったとか?」 爆発を目の当たりにした青木が言い出した。「うーん、あの車の運転手はごく普通の人だったけど……」 藤井は運転手への取り調べ調書を表示させた。犯歴無しの普通の会社員だった。ガソリンスタンドの経営者にも従業員にも不審な点は無かった。「付近の防犯カメラはダメなのか?」 室長が画面を見ながら言って来た。「田舎なので望みが薄いですね……」 藤井は拡大した地図を表示させた。自動車工場付近には田畑が多く、防犯カメラの設置が期待できる建物が少なかったのだ。「狙撃犯を知
「お前さんがまた勘違いしてるみたいだからな」 チョウはせせら笑いを浮かべながら言った「また?」 先島は怪訝な表情を浮かべて訊ねた。「ああ、トラックの事故だよ」 くっくっくと引きつったような笑い声を出すチョウ。「あの狙撃は俺が狙われたと思っただろう?」「ああ……」「あの狙撃は俺ではなく、トラックの運転手を狙ったのさ……」 チョウは意外な事を言いだした。「そう言えば南米系の運転手だったな……」 先島は狙撃場面を思い出しながら言った。顎髭と濃い眉毛の運転手だった。「アイツは南米系組織の人間だったのさ。 ここの所はアイツと組んで仕事してたからな」 恐らくはチョウの武器先のひとつだろうと踏んでいた。 南米は米ロ中からの武器が豊富に流れ込んで来ているからだ。米国は麻薬撲滅のために武器を流し、中露は覇権を握る為に武器を流す。 犯罪組織は武器を手に入れる為に、それらの国に麻薬を流しているのだ。 よく因果関係が分からない国々だった。「そん時分にだが結果的に取引に失敗した事があるのさ。 まあ、俺がドジを踏んだんだよ」 チョウが薄ら笑いを浮かべがら喋った。「俺の始末を付ける為に、ある人物に依頼が行われた噂を仲間から聞いたのさ」 チョウは周りを見渡した。運転手が狙撃された瞬間にチョウが驚愕してた理由が分かった気がした。 噂では無く本当だと確信したからであろう。「なんで日本に来たんだ?」 そんなチョウに先島が質問した。敵から逃げて潜伏するのなら、銃器の入手が容易な国の方が有利だと思えるからだ。「アジア人が潜伏するのには具合が良い国なんだよ。 日本は……」 確かに共和国の仲間もいるし、チョウ自身の知り合いも居そうな感じだ。流ちょうな日本語を喋る事が出来るチョウにはうってつけだった。日本人は外国人に妙に親切だからだ。「ある人物っていうのは誰なんだ?」 先島が聞いた。恐らく狙撃犯の事だろうと思ったからだ。「ああ、お前さんはクーカと言う殺し屋を聞いた事はあるか?」 チョウが聞いて来た。先島は首を横に振った。まず、殺し屋と言う職種がなじめないのだ。時代錯誤も甚だしい。「そうか、なら忘れる事が出来無くなるのは保証するよ」 チョウは再び意地悪そうな笑みを浮かべる。先島が困るのが楽しくてしょうがないようだ。「世界中の国の治安機関が血眼で追い回
(狙撃されたという事は俺の事も見られているよな……) 先島は背中がざわざわするのを感じていた。狙撃手はこちらを見ているのだ。(暗殺者と言うのは目撃者を消すのが鉄則だと普通は思うんだが……) しかし、今のところ撃たれてはいない。手慣れた狙撃手なら一秒も掛からずに次弾を装填できる。先島が撃たれない意味が分からなかった。(それなら俺も狙撃されているはずだ……) 先島はゆっくりと弾が飛んで来た方向に顔を向けた。射撃音が無いという事は、遠距離か消音器をライフルに付けているかだ。先島は後者の方だと考えた。 見た先に有るのは雑居ビル。その屋上付近を動く影が一瞬見えた気がした。(クーカとか言う殺し屋は余計な仕事をしない主義なのか……) 目撃出来たのは蒼い影だけだった。それがチョウの言う所のクーカである確信は無い。 先島は立ち上がってチョウの傍まで行った。「ふんっ! チョウはこれを見せつける為に携帯電話を使っていたのか……」 先島は笑ったまま死んでいるリョウを見下ろしながら毒づいた。長年追いかけて来た相手が死んでしまったのだ。「……」 チョウはクーカに狙われるのを承知で出て来た。逃げきれないと思ったのか、或は先島にクーカを追わせようと考えたのかのどちらかであろう。 単純な密輸事件だと思っていたが問題は深そうだと先島は考えた。 都内の某所。 ひとりの少女が歩いていた。黒い外套に身を包んだ彼女は、一見すると学生の塾帰りのようにも見える。 その小さな女の子は、倒産した無人の工場で妙な連中に絡まれたいたクーカだった。 あの時は『特殊な仕事』を実行する為、現場を下見をしに来ていたのだ。 主な目的は射線の確認と逃走経路の確認。 いくら超絶的な戦闘能力が有っても無限に闘える訳ではない。身体が小さめなので体力が続かないのだ。(メンドイ事したくないし……) 回避できるのであればそれに越した事は無い。自分の身の安全を最優先するのを命題としているクーカには当然の事だ。 今回はトラックに同乗していた人物を始末せよとの仕事内容なのでここに来ている。対象は自分にも馴染み深い男だった。「……」 クーカがふと立ち止まった。そして、おもむろに後ろを振り返った。「……」 そこには誰も居なかった。郊外の住宅地にありがちな無機質な道路があるだけだ。 しかし、彼女には
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた
「?」 クーカが小首を傾げる。「特殊なキーが必要なのさ……」 大関の額から汗が垂れ始めた。「どうせ、貴方の網膜認証と指紋なんでしょ?」 クーカが目を指差しながら聞いた。ありふれた防犯装置だからだ。「ああ、生憎と怪我で動けなくなってしまったね……」 大関はそう言ってニヤリと笑った。その足元には血溜まりが出来始めている。銃撃戦での流れ弾に当たったのだ。「じゃあ、本人が生きている必要があるの?」 彼女は大関にグッと顔を近づけて言い放った。「現物を持っていけば良いだけなんじゃない?」 以前にも似たような装置を突破した事があるのだ。今回も同じ方法を取るつもりらしい。「え?」 大関は咄嗟にクーカが言った事が理解出来なかった。自分の命に価値があるとでも勘違いしていたのであろう。「まて、わしが死ぬと……」 大関がそこまで言いかけたがクーカは迷わず引き金を引いた。一発の鈍い音と引き換えに大関は首を垂れてしまった。「安全装置が働いて工場が自爆と言った所かしら……」 それは想定内だ。クーカは腰から小型のナイフを取り出した。これからの作業にククリナイフでは大きすぎるのだ。 仏像の台座に入り口があった。指紋と網膜の認証のようだ。クーカは大関から取り出した指と眼球を使って扉を開けた。 そこには階段があってもう一階分下がるようだ。降りていくと机と研究設備が並ぶ空間があった。しかし、そこは放棄されたかのように無人だった。研究者たちは予め逃がされていたのであろう。 無機質な空間が煌々と明かりで照らされている。 その中をクーカは銃を構えたままゆっくりと進んでいく。警備員がいる可能性はあるが配置されている可能性は少ないと考えている。「んがっ!」 不意に足元が崩れた感覚に襲われ膝を突いた。目の前の空間がいきなり曲がりくねった
地下一階。 全員が銃を構えたままエレベーターを見つめている。不意に開いた扉から何かが室内に放り込まれてきた。「手榴弾っ!」 誰かが叫んだが投げ込まれた物は、床に落ちる音と同時に炸裂した。強烈な音と閃光がホール内に充満した。「くそっ! スタングレネードかっ!」 警備隊長が自分の目を手で覆い隠しながら唸るように喋った。「撃てっ!」 だが、その掛け声よりも早く、ホール内に侵入を果たした者がいた。全員が目を離したので気が付くのが遅れたようだ。「ぐあっ!」 クーカは飛び込んで最初の男の首にナイフを突き立てた。そのままの体勢で隣に居た男の首を跳ね、返す刀で三人目の腹を切り裂いた。ナイフを使ったのは自分の存在を悟られるのを遅らせる為だ。(手前の右側に三人。 左側に二人。 左奥に二人。 右側奥に三人。 大関は一番奥の台座……) 彼女は右側の三人を始末している隙に、地下に居る人員の配置を見ていた。 男たちはいきなりの目くらましに気が動転しているのか銃を入り口に向けたままだ。次のターゲットはこの二人。その前に左奥の二人の内モニターを監視していた男にはナイフを投げ込んでやった。ナイフは男の首に刺さったが、傍に居たもう一人は咄嗟にしゃがみ込まれてしまった。牽制はとりあえずは成功だ。 クーカは腰から銃を取り出し、左手前の二人に銃弾を送り込んでいく。二人は横合いから来る銃弾に反応できずに、何が何だか分からない内に絶命してしまった。 ここまで掛かった時間は一分も無い。しかし、尚も台座に向かって突進していくクーカ。「くそっ! 小娘がっ!」 モニターの所に居た男が立ち上がって拳銃を撃って来た。しかし、クーカには当たらない。銃弾を右に左に避けながらクーカは男に迫っていく。「何故、当たらないんだっ!」 男は尚も引き金を引き続ける。しかし、銃弾はクーカの身体を捉える事無く床に後を残すだけだった。弾道が見えるクーカには無意味な行為だ。「悪鬼め……」 男の懐に飛び込んだクーカは右手のククリナイフで男の腕を薙ぎ払らった。それから、左手の銃で男の顎下から撃ち抜いた。 男は仁王立ちの状態からゆっくりと倒れていった。クーカはそのまま男の影から右奥の男たちを銃で撃ち倒した。 右奥に居た男たちはアサルトライフルを構えていたが、クーカが倒した男が邪魔で撃てなかったらしい。その
工場の入り口。 ここに来るまでに妨害行為は皆無だった。工場内に兵力を集中させたと見るべきだろう。 工場の入り口には監視カメラが有った。クーカはカメラに向かって携帯電話をかざして何やら操作した。(よし…… これで時間が稼げるっと……) 彼女は強力な赤外線を放射させて、監視カメラのCCD部品を飽和させたのだ。 こうすると自動回復するまで暫くは時間が稼げる。外国の強盗団が良く使う手口だ。 普段なら銃の形をしたアイテムを使っている。だが、今回は日本に持ち込む暇が無かった。(確か…… この辺よね……) 彼女はエレベーターホールに辿り着いた。そして、ホールの隣に有る掃除用具などがある備品室に入り込んだ。 クーカは保安室で見せて貰ったビルの設計図を覚えていた。 五階にあると言う秘密エレベーターの入り口に行く気は無かった。敵が待ち構えているのは分かり切っているからだ。(入るのに手間が掛かるのなら、壁に穴を開けてしまへば良いのよ……) 彼女はショートカットするつもりなのだ。別に友好的な訪問をしに来た訳では無い。真面目に敵の希望通りに動く必要も無いだろう。 背中に背負ったウサギのナップザックを降ろして中から四角い粘土のような物を取り出した。(加減が難しいのよね……) 壁に粘土のような物を張り付けていく。映画やドラマでお馴染みのC4爆薬だ。自在に形を変えられるので、こういう作業には向いている爆弾だ。(ん?) 爆薬を壁に張り付けていると、エレベーターの動作音が聞こえて来た。(誰か降りて来る……) いきなり監視カメラが使えなくなったので様子を見に来たのであろう。「……」 仕掛け終わったクーカは爆弾を爆発させた。爆弾の爆風は動作していたエレベーターの安全装置を作動させ停止させてしまった。(これで何人かは閉じ込める事が出来たっと……) 懐から降下用器具を取り出し、エレベーターのワイヤーに固定した。これを使って一気に降りるのだ。爆破音が響いた以上は、敵に何が起きたのかは伝わってしまったはずだ。 固定を確認するとクーカは中空に身を躍らせた。降下器具はゆっくりとだが彼女を静かに地下へと降ろしていく。(地下には何人いるのかしら……) 降下しながらクーカは考えた。もっとも敵の数は彼女にとっては問題では無い。掛かってしまう時間の方が問題だった。だから、
道半ばまで来た時に不意にクーカが立ち止まった。工場入り口までは一本道だ。迷うような場所では無い筈の場所だ。「右に三人…… 左に二人…… 化学工場に狙撃者が一人いるわ……」 クーカがそう呟いた。「……」 目を凝らしたが先島には見えなかった。 不意にクーカが空中に何かを放り投げる。次の瞬間。辺りは閃光に満たされた。 彼女が使ったのはスタン・グレネードにも使われる、アルミニウムと過塩素酸カリウムで練り込んだお手製の閃光手榴弾だ。きっとヨハンセンが作成してくれたものであろう。 襲撃されるのが分かっているのに暗くしている理由は暗視スコープを使用しているからだ。クーカは相手の視覚を奪って有利に事を運ぼうとしていた。(いやいや…… 先に言ってよ……) 先島が閃光に戸惑って立ち止まっていると、通用道路の右側を目指してクーカが走り出した。走ると言うよりは飛び込んでいくと言う方が合ってるのかもしれない。それと同時にククリナイフを外套から覗かせているのが分かった。「うぐっ」「そっちに行ったぞっ!」「ぎゃっ!」 声を掛ける間もなく暗闇の中から叫び声が聞こえた。銃声が聞こえない所を見ると相手が構える前に始末をつけているらしい。「仕事が早いな……」 先島も弾かれたように左側の樹の根元に銃弾を送り込んだ。ほんの一瞬だが人が居る気配がしたからだ。「ぐあっ!」 樹の根元に居た一人に命中した。目線を上に向けると樹の上にもう一人居るのに気が付いた。 上半身を起こしている。狙撃するつもりがいきなりの閃光で気が動転していたに違いない。無防備な状態で顔から暗視スコープを外そうとしているらしかった。 先島は続けざまに銃弾を送り込んでやった。樹の上の男はスローモーションのように落ちて行った。 その様子を見ていたクーカは先島に近寄ろうとした。すると。ヒュンッ クーカの耳元を何かが通り過ぎ、傍の樹木に弾痕を作った。狙撃されたのだ。(そういえば狙撃手が居たわね……) 足元を見ると倒れた男はライフルを持っていた。クーカはそれを拾い化学工場に向かって立膝で構えた。狙撃手を片付ける為だ。 大体の所に狙いを付けると引き金を引く。自分の狙撃銃では無いので撃ちながら調整する為だ。 一発目。(左に逸れている……) 二発目。(右に逸れた……) 三発目。(これでお終い……